withme

独りよがりで良いじゃない

アイデンティティが

ない。

 

このタイトルと書き出しすらサカナクションの「アイデンティティ」という曲から拝借した。

それくらいオリジナリティやアイデンティティのない人間だ。

 

思い返せば幼稚園児の頃から、みんなが観ているという理由でプリキュアを見始めたし、みんなができるという理由でウインクを練習した。

 

小学生の時はクラスメイトが着ている可愛らしいアパレルブランドの洋服が欲しかったし、中学生の時は友人の間で流行っている音楽ばかり聴いていた。

 

高校生になるとTwitterInstagramといったSNSが普及し、その膨大かつ影響力のある情報の波に溺れた。

デパコス、おしゃカフェ、スタバの新作、ありとあらゆる流行を追いかけたし、誕生日には机にお菓子を貼り付け、文化祭ではお揃いのアクセサリーを身に着け、写真を撮る時はフィルターをかけた。

 

今でも、着たい服は街中の女の子が着ているものだし、行きたい場所は友人のおすすめスポットだし、食べたいものはインスタ映えするスイーツだ。

みんなが好きなら良いものなんだと無条件に思い込んでいるのだろう。

 

つまり私は常に誰かの亜流である。

それゆえ本物には絶対に敵わないし、油断すると綻びが出る。

だから尚更、人の言葉に影響を受けやすい。

似合うと言われた髪型は忘れないし、メイクにアドバイスを貰えば翌日からそれに従う。服を買う時は妹に相談するし、行きたいカフェは必ずレビューを確認する。

 

こうして羅列してみるとどれもこれも馬鹿馬鹿しい気もしてくる。

自分らしさを持っている人からすれば、人の真似事に終始する生活は手抜きに思えるかもしれない。

 

だが、その「自分らしさ」とは他者との関わりを通じて作り上げてきたものではないだろうか。

何が似合って何が似合わないか、何が好きで何が嫌いか、何を求めて何を拒むか、それらは全て相対的なものだ。赤より白が似合うと判断できるのは赤と白の両方を試した人だけなのだから。

 

それならば彼らと私の違いは取捨選択が上手く出来るかどうかだ。

取捨選択が上手く出来ないとは、裏を返せば全てを大切にしていると言える。

選ぶのが億劫なのではなく、どれも好きだから選べないのだ。

 

そう考えると、そもそも無個性であること自体、裏を返せば何にでもなれるということだ。

自分で自分の系統を決めたブレない生き方もかっこいいが、その日その時その気分に応じて自分を変えられる生き方も自由で楽しい。

 

かっこいい生き方が出来るようになるまでは楽しく生きよう。