はしゃぐ気持ちは旅の友
ゴールデンウィーク中に、久しぶりに家族旅行に出掛けた。
ここ2、3年ほど体調を崩していた祖母が、目覚ましい回復を見せたため、思い切って2泊3日遊んでみることにしたのだ。
久々の家族旅行に浮き足立ち、1日目は妹と母と3人で色違いのシャツを着ていた。
しかもビビッドピンク、というかマゼンタ。
浮き足立っていたのは服装だけではない。
行きの車に乗るや否や、2つあるドリンクホルダーにそれぞれ飲み物とおやつをセットし、遠足気分を味わっていた。
いつぞやの記事でも書いたが、私は幼い頃から助手席に座る。
助手たるもの、運転手に退屈や眠気を感じさせてはならない。
そんな自己満足かつありがた迷惑な考えから、父の運転中はなるべく起きているようにしてきた。
道中くだらない雑学を披露したり、目に入るものを面白おかしく揶揄したりするのが大好きだ。
幼い頃はそれで父を楽しませているつもりだったが、今となれば、運転に集中したいだろうに会話に付き合ってくれる父の優しさを痛感する。
こう考えると、旅行において楽しいのは観光そのものよりも、むしろそこで同伴者と過ごす時間なのではないかと思われる。
美しい景色や美味しい食べ物に心惹かれるのは勿論だが、車内での雑談や旅館での団欒には格別の楽しさがある。
非日常の中の日常という感じがして、いつもよりも仲良く過ごすことができる。
実際、布団が敷かれた部屋にテンションが上がった私は、ブリッジを試みて頭を打った。
ディナーバイキングでは、6種類あったアイスクリームをコンプリートした。
20歳の自覚はあるのか。
家族との旅行だったこともあり、浮かれてふざけてばかりいたが、たまにはこんな時間も良いだろう。
子供の頃は休暇のたびの恒例行事だった家族旅行だが、大人になるにつれその機会は減っていった。
遊ぶ時は全力で遊ばなければ、旅先にも休暇にも、この時間を作ってくれた両親にも失礼だ。
コーンフレーク・コンプレックス
パフェのコーンフレークは、断じてかさ増しではない。
カフェ巡り甘いもの巡りが趣味な私は、当然パフェも大好きだ。
特に近年、Instagramの普及により、目にも舌にも美味しいパフェがたくさん現れた。
季節の果物を使ったもの、精巧な飴細工が乗ったもの、自家製のアイスクリームで作られたものなど、それぞれの店にこだわりがある。
そうなると、クオリティに比例して価格も釣り上がり、今や2000円弱のパフェも珍しくない。
デザートに、スイーツに2000円。
「ラーメンだったら3杯食べられる」と野次が飛んできそうだ。
だが、そんな野次は問題ではない。
誰がなんと言おうと、私は2000円のパフェに相応の価値を見出すし、幸せを感じるのだ。
問題なのは、同じパフェ好きであるはずの人々によるパフェへの批判なのだ。
質も価格も高い商品が増えた結果、消費者達の舌は肥え、評価は厳しくなった。
私がショックを受けたのは、「コーンフレークでかさ増ししてて残念」や、「途中グラノーラで誤魔化してた」などのコメントだ。
美味しいじゃん!!パフェに入ってるコーンフレーク美味しいじゃん!!
果物やアイス、生クリームといった甘くて柔らかいものだらけのパフェの中で、程よい塩気と食感をもたらしてくれるコーンフレーク。
溶けかけたアイスや沈んできた生クリームと混ざり合い、噛み締めるとぎゅっとなるあの美味しさは、パフェに必要不可欠なのだ。
パフェか今ほどこだわりスイーツではなかった頃を思い出して欲しい。
ファミレスやカラオケで800円程払えば食べられる、だいたいイチゴかチョコの二択のあのパフェだ。
3分の1くらいはコーンフレークだったではないか。
私達が持つパフェの思い出には、おそらく必ずと言って良いほどコーンフレークが登場する。
それほど大切な構成要素であるはずなのに、何故、かさ増しだの誤魔化しだのと言った迫害を受けなくてはならないのか。
ノスタルジーは感じられないのか、薄情者。
言い過ぎました、コーンフレークの代わりに自家製のコンポートやケークが入った芸術的なパフェも大好きです。
ただ、それらが美味しいからと言ってそれら以外が劣っているということにはならない。
美味しいものは美味しいのだ。優劣などない。
パフェの語源はparfait、フランス語で完璧を表す言葉だ。
それぞれ味や構成要素は違えど、全ては個性であり、完璧なのだ。
As I Like It
有名なイギリス人作家といえば、まず思い浮かぶのは誰だろう。
近年であれば、『ハリーポッター』シリーズで世界中を熱狂させたJ・K・Rowlingだろうか。
あるいは、少し前にノーベル文学賞を受賞したことにより話題になったカズオ・イシグロ氏かも知れない。
しかし、時代にこだわらずに言えば、1番有名なのはWilliam Shakespeareだろう。
実際に作品を読んだことがあるかどうかはさておき、「シェイクスピアなんて名前は聞いたことがない」という人はあまり見かけない。
故蜷川幸雄氏の舞台は大人気であったし、テレビや漫画など、あらゆる場面において『ロミオとジュリエット』は悲劇的恋愛の代名詞のように扱われている。
大学で英文学を学んでいる私は、ここ1年ほどそのシェイクスピアに魅了されている。
いや、現在3年生であるにも関わらず「ここ1年ほど」というのは大いに問題だ。
高校時代の私は、得意科目が英語で趣味が読書だという安直な理由で、大学で英文学を学ぶことを決めた。
当然、入学後すぐにその素養のなさが露呈した。
ガリバー旅行記は小人の国に行く場面が全てだと思っていたし、フランケンシュタインは怪物の名前だと思っていた。
アーサー王伝説に至っては、その存在すら知らなかった。
シェイクスピアに関しても、小学生の頃に大人ぶって『ロミオとジュリエット』に手を伸ばし、「…?お話じゃないじゃん台本じゃん」とガッカリして以来ご無沙汰していた。
四大悲劇すら答えられない始末だったのだからお粗末なことだ。
1年生時のイギリス文学の成績はCだった。
(Dで落単)
しかし下手の横好き、もしくは負けず嫌い。
2年生では当初の予定通りイギリスの文化や文学に関する授業を積極的に履修した。
知らなければ知れば良いのだと思い、テストに出る部分のスライドだけ写真を取れば済むような授業でもひたすら板書した。
急ぐと殴り書きになってしまい見直す気になれないため、帰宅してから別のノートにまとめ直した。
最近になってその授業の先生に「最初、内職をしているのだと思っていた」と言われかなり焦った。心情最悪かよ。
要領の悪い私だが、この努力は実を結んだようで、英文学を扱うゼミに入ることが出来た。
大好きな先生だし、仲の良い友人もいるし、自分にとって最高の環境だ。
ゼミに入ったとなれば卒論の話が持ち上がり始める。
前述の通りここ1年ほど、つまり真面目に英文学を勉強し始めてから、シェイクスピアに惚れ込んでいる私は、卒論も彼の作品について書くつもりだ。
些か早計かとも思ったが、もう作品も絞ってあり、訳者の違う3冊を購入した。
訳者、と書いたが、私にはシェイクスピアを愛読している上である不安があった。
原文で彼の作品を読んだことがないのだ。
彼の作品は16~17世紀の英語、つまり中英語で書かれており、我々現代人には馴染みのない綴りや文法が多い。
大学で英語学を専攻している人達ならば古英語や中英語の知識がある。
彼らなら読めるのかもしれないと思うと少し悔しいし、羨ましくも思う。
だが、ゼミの自己紹介の際に先生から、「現在シェイクスピアを研究している日本人で、彼の作品全てを原文で読んだ人はいないでしょうね。」と言われた。
大変驚いたが、同時に安堵した。
また、「簡単な英語で書かれたものがありますから、貸してあげますよ」とも言ってくれた。
先生ありがとう大好きです。
張りぼて付け焼き刃一夜城の学生だが、好きこそ物の上手なれを体現できるよう努めたい。
未来の味蕾に期待
大学生になった時、周りにブラックコーヒーを飲めない人が意外と多いことに驚いた。
私は具体的に何歳からだったかは思い出せないものの、中学生の頃にはアイスコーヒーならばブラックのまま飲めていた。
高校生の時、クラスの男子生徒達が罰ゲームで買った缶コーヒーを「こんなん飲めねえよ!!」と叫びながら回し飲みしていた。
それを見て、自分は一歩リードしているような気分になった記憶がある。
今思えば、コーヒーが飲めるくらいで大人になったつもりでいるなど、子供であることの表象に他ならないが。
私が割合早い時期からコーヒーを飲めるようになったのは、父親の影響が大きいだろう。
我が家では、家族で出かける時の運転は専ら父がするのだが、助手席には何故か母親ではなく私が座る。
書きながら理由に思い当たった。多分、二人の娘を後部座席に並べると喧嘩が絶えないからだ。
とにかく、助手席に座ると当然運転手とドリンクホルダーを共有することになる。
父は、もともとの嗜好もあるだろうが、運転する際には眠気覚ましのためにもほぼ100%缶コーヒーを飲む。
好奇心旺盛な小学生だった私は、親がいつも飲んでいるそれに自然と憧れを抱いた。
もちろん、最初の感想は「にっっっが!!!まっっっず!!!」だった。
あと、ちょっと酸っぱい。軽い劇薬かと思った。
こんなものを美味しい美味しいと飲んでいる大人はちょっとどうかしてるんじゃないかとも思った。
それでも少しずつ、カフェオレなら飲める、微糖なら飲める、などと慣れていき、今では好き好んで選ぶようになったのだから面白い。
こんなことを思い出したのは先日、コーヒーが飲めない友人に「甘いから」と言ってカフェモカを勧めたところ、訴訟を起こされんばかりに怒られたからだ。ごめん。
ちなみに、かく言う私もコーヒーは飲めるが炭酸は飲めない。
妹が飲んでいた辛口のジンジャーエールを一口もらった時、ミシン針でも飲まされたのかと思った。
せっかく20歳を迎えお酒が飲めるようになったのに、炭酸がダメでは飲めるものも限られる。
コーヒー同様、少しずつ慣れて楽しめるようになりたい。
5年程かかるが。
在り来りな名前
私の名前はかなりポピュラーなものだ。
漢字にすると途端に珍しいものになるが、読み方だけなら日本でトップ10に入るのではないだろうか。
人名のみならず、植物や農作物、商品などでも見かける名前だ。
幼い頃はこれがコンプレックスだった。
同じ名前の友人と一緒にいると後ろから名前を呼ばれ、2人同時に振り返ると笑われた。
絵本やアニメにその名前のキャラクターがいると、そのキャラクターの失態や愚行を私までからかわれた。
読み方を連想しにくい漢字であるため、キラキラネームだと馬鹿にされたこともある。
今思えば取るに足らないことだが、自分ではどうしようもない生まれ持ったものをとやかく言われるのは愉快なことではなかった。
しかし成長するにつれそのような経験をする機会は減り、むしろ嬉しい経験が増えた。
大学に入学してすぐの頃、例の如く私の名前を読み間違えた友人に、「間違えた方の読み方も響きが可愛いから、そう呼んでも良い?」と言われた。
高校生の頃、これといったあだ名が無かった私にとっては大変喜ばしい申し出だった。
本名とはかけ離れた新鮮な呼ばれ方を今でも気に入っている。
また別の友人からは、「名前の漢字そのままって雰囲気だね!」との賛辞をもらったことがある。
身分不相応に輝かしい漢字をあてられたことを引け目に感じていた私にとって、両親が「こうなってほしい」と願いを込めて付けてくれた名前に少しでも近付けているのなら本望だ。
最近では、お花見に行った友人が、私の名前がつけられた桜の木をInstagramのストーリーに載せていた。
おそらく私を意識してくれての投稿であったためコメントを送ると、直ぐに反応をくれた。
まだ咲いていなかったらしい。
ごめんね怠けてた、そろそろ咲いたかな。
また別の日には、別の友人が私の名前がつけられたマーマレードの写真をLINEのグループチャットに送ってきてくれた。
その事実だけでも嬉しいのだが、あとに続いたおちゃらけながらも愛のあるやり取りが幸せだった。
名前を通じて心が温まる経験をすることが増えたこの頃、この名前にも、名付けてくれた両親にも、優しい友人達にも感謝の念が溢れる。
推しは推せるうちに推せ
生まれて初めて、好きな芸能人の画像フォルダを作った。
これまでの人生においても、好きになった芸能人はいた。
その人がドラマに出演すれば毎週録画した。リアルタイムでも視聴していた。
バラエティ番組に出演すれば素の姿が見られると大喜びしていた。
映画に出演すれば可能な限り早く観に行った。
過去の作品はレンタルショップで借りて揃えた。
彼自身の出演作品のみならず、彼が好きだと言った映画や小説、出演作品の原作にも興味を持った。
SNSもフォローしていたし、ファンのまとめる情報も逐一チェックしていた。
お気に入りの作品であればセリフが暗唱できるほど見返した。
しかし、これほどまでに好きだったにも関わらず、いつの頃からかすっかり熱が冷めてしまっていた。
今でもCMやドラマで見かければ「おおっ」と思うが、大好きだった頃ほどの執着は何処にもない。
最近何に出ているのかすら知らない。
自分が特別飽きっぽい性格だとは思わないが、特定の芸能人を長く熱く推し続けることが難しいことは知っている。
そうなると、新しく別の芸能人にハマるのも躊躇してしまう。
あれほどの情熱をもう一度別の人に向けられる自信がない。
追いかけるには体力が必要だし、お金も時間もかかる。
それほどまでに没頭しても、いつか冷めてしまうと思うと、費やす全てが勿体無いような気もしてしまう。
こうした理由で推しを作ることに及び腰になっていたにも関わらず、何故か突然沼に片足を突っ込んでいる。
ここ3日ほど画像集めに勤しみ、冒頭に述べた通り専用フォルダを作った。
写真集やファンクラブの存在を知り、購入及び加入を検討している。
こうなると、ハマる前の「いつ飽きるとも知れないものにお金や時間や労力を費やすのは無駄」という考え方はどこかへ吹き飛んでいる。
いつか飽きてしまうことは、今没頭しないことの理由にはならない。
むしろ、いつか飽きてしまうからこそ、今全力で没頭するのだ。
スポーツでもゲームでも音楽でもなんでも、熱中できるものがある生活は楽しい。
その高揚感、充実感はこの瞬間にしかない。
それに払う対価など、いかなる金額いかなる苦労だったとしても取るに足らない。
久しぶりにこのように思える存在が現れて、生活が生き生きとしている。
この楽しさが続くうちは、思う存分没頭しようと思う。
うまい棒745本分
7452円
先日買ったスカートの値段だ。
決して安くはないが後悔はしていない。
今日はもともと服を買うつもりだったし、1時間程色々な店を見て回り、吟味した末の購入だ。
グレーのチェックが春らしく、裾の広がるシルエットが可愛らしい。丈も短過ぎず長過ぎず、上品さを保っている。
とても気に入ったため履くのが楽しみだ。
しかし7452円。後悔していないとはいえ、貧乏学生にはなかなかのお値段だ。
確かディズニーランドの入場料は大人1人7400円だった。
夢の国より高いスカート。
そう思うとお金の使い方のバリエーションに面白みを見出してしまい、色々なものと比較してしまった。
カフェ巡りが大好きな私が1回のランチで使う費用はおよそ1200円だ。
ランチ約6回分のスカート。それもかなり美味しくてお洒落なランチだ。
映画のチケットは大学生ならば1枚1500円。7500円あれば5回観ることができる。
1本2時間とすれば、10時間も最新のエンターテインメントを楽しむことが出来る。
大学の講義は1回平均5000円だそうだ。
つまり7500円で講義1.5回分。授業にもよるが、自分が今まで知り得なかった知識を身に付けるには十分な時間だ。
ネイルサロンでジェルネイルをしてもらっている友人が、施術は1回7000円程だと言っていた。
1ヶ月間、プロの手によって装飾を施された爪を楽しむことが出来るのだ。
他にも、7452円の使い道は沢山あるだろう。
めちゃくちゃ良いお肉を食べられるだろうし、ちょっとした日帰り旅行にも行けるだろう。
ゲームソフトを買ったり、アプリに課金したりする人もいるかもしれない。
スポーツの観戦やライブへの参戦もできる。
これほど様々な有効活用ができる金額を、布切れ1枚に費やした私は馬鹿なのではないか。
そう思いかけたが、冒頭で述べた通り私はこのスカートを気に入っている。
物の価値は人それぞれだ。
言い換えると、私達は物そのものの価値ではなくその物を得ることによって感じる幸福を買っているのではないだろうか。
そう考えれば、7452円を服に使おうが食に使おうが勉強に使おうがゲームに使おうが、その人が幸せならその支出には十分価値があったと言えよう。