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独りよがりで良いじゃない

青春の在処

妹から「アオハルってどこにあるの?」とLINEが来た。

 

 

え、哲学?

 

 

高校の卒業式を迎え、制服を着て友人達と笑い合う日々に終わりを告げた妹。

学生生活の節目に至り、感傷的な気持ちになっているのだろうか。

LINEBGMもクリープハイプの栞にしてたし。

 

ここは姉として、未来に迷える妹に希望を与える言葉をかけてあげたい。

 

青春とはどこにあるのだろう。

 

辞書で「青春」を引くと、「夢や希望に満ち活力のみなぎる若い時代を、人生の春にたとえたもの。青年時代。」と書かれていた。

 

青春の輝かしいイメージを捉えた表現だとは思うが、「若い時代」というのが引っかかる。

 

若さは青春の必須条件なのだろうか。

 

私自身、先日20歳を迎え大人の仲間入りを果たした。

 

高校生の頃とは異なり、アルバイトをしているため金銭的に余裕がある。

長期休暇が2ヶ月程あるため時間的にも余裕がある。

勉強にしても、自分の学びたいことだけを選んで取り組むことができる。

 

高校生よりずっと自由だし、高校生の時は知り得なかった楽しさを沢山知った。

 

高校生活の終焉が青春の終焉だとはとても思えない。

むしろ今の方が青春を謳歌していると言える。

 

それに、メンバー全員が今年で30歳となるPerfumeはライブで「今年はみんな30歳!豪快におっきな扉開けてくぜ、青春謳歌ー!」と叫んでいた。

10代の頃から活動を続ける彼女達だが、いつだって今が1番輝いている。それは自他ともに認めることだ。

 

制服を脱ごうが成人しようが幾つになろうが、日々を楽しく過ごして入れば、それは青春と呼べるのではないだろうか。

 

 

そう考えれば、なにも高校を卒業したくらいで悲観的になることはない。

これから、今までとは異なる環境に身を置き、新たな人物と出会い、新たな知識を吸収する。それら全てはかけがえのない経験であり、素晴らしい新生活となるだろう。

 

 

 

 

 

 

※妹の言っていた「アオハル」とは、プリ機の新機種のことでした。

信じる者は掬われる?

人の話をすぐに鵜呑みにしてしまう。

 

どれほど嘘っぽい話であっても、基本的に疑うというステップを踏まずに聞いてしまう。

 

先日、友人がInstagramのストーリー機能を用いてショートドラマを作っていた。

その中で、とある友人の就職が決まったことを祝う場面があった。

 

もちろん信じた。

 

「え、こないだご飯行った時、来年度もよろしくって話したのに!?」「ますます会えなくなるのじゃん!寂しい!」「てか聞いてない!!」

などと軽くパニックに陥った。

考えてみれば、就活している素振りもなかった彼が就職などするはずがない。学年を考えても有り得ないし、学部と就職先は全く無関係なものだった。

 

更にそのショートドラマの続きで、私の友人と私の以前付き合っていた人が交際しているという旨の発言があった。

 

もちろん信じた。

 

その友人は私と彼の交際を応援してくれていたため、「あの時も本当は嫌な気持ちだったのかな」「私無神経な発言沢山したんじゃないか」などと悩みに悩んだ。『肝が冷える』『頭が真っ白になる』といった慣用表現を実際に経験した瞬間だった。

 

しかしストーリーが展開していくにつれ、嘘であることは明々白々となった。

ゾンビドラマだったし。

 

とんだ勘違いを恥じると同時に、動画のクオリティに感心してしまった。

 

感心したとはいえ、もう何でもかんでも鵜呑みにしないよう気をつけると心に決めた。

 

そして一昨日、友人がInstagramに女友達と出かけた時の写真を投稿していた。

いや、投稿文には、女友達ではなく外国人男性であり、しかもかなり年上であるという旨の説明がなされていた。

 

もちろん信じた。

 

「えええ最近の男性ってめちゃくちゃ可愛い」「余裕で負けてる女性だとしても綺麗すぎる」

「てか彼氏さん怒らないかな大丈夫かな」などとわちゃわちゃ考え込んだ。

 

その投稿に本人からのコメントがあったため直ぐに嘘だと判明した。いやもうこれ土下座案件。

 

 

我ながら学習能力がまるでない。

なんのために脳みそが入っているのか分かったものではない。

 

その昔、偉い人は言いました。

「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を)使うのは難しい。」と。

 

今や某掲示板サイトは下火になったが、代わって台頭してきたあらゆるSNSにおいても同じことが言える。

 

何でもかんでも真に受けずに、冷静な判断をできるようになろう。

 

ただ、友人達の面白い嘘やジョークを見るのは大好きだ。騙されるのも楽しい。

 

これからも楽しみにしつつ、賢い女を目指したい。

ストロボエイジを取り戻せ

読書は好きだが、読むのは専ら小説だ。

漫画はあまり読まない。

 

家に全巻揃っている漫画は『DEATHNOTE』『君に届け』『闇金ウシジマくん』『ストロボ・エッジ』だ。

 

温度差。

 

ちなみにストロボ・エッジは妹のものであるため私は読んでいない。

ここが問題なのだ。

 

家にある小説はジャンルを問わず全て読んでしまう。父が買ってきたものであっても、妹の読書感想文用であってもだ。

場合によっては持ち主より先に読破することすらある。

もちろん自分でも買う。今読むためのものだけでなく、ストックも常備していないと心許ない。

本を何冊かまとめ買いすると、「これで暫くは生きながらえるな。」という気分になる。

 

これほど読書に飢えているのに、なぜ漫画は読まずにいられるのだろう。

本であることに変わりはない。むしろ絵がメインであるため小説よりも遥かに読みやすいはずだ。

漫画が嫌いな訳では無い。子供の頃は毎月『ちゃお』を買ってもらっていた。

 

そこで、妹に借りてストロボ・エッジを呼んでみた。

 

3ページ目で心が折れそうだった。

 

1話を読み終わり、自分が漫画、特に少女漫画に惹かれない理由を思い出した。

 

自分をどういう位置付けで読めば良いのかわからないのだ。

 

世の人々はどういう視点で歯の浮くような甘酸っぱい世界に入り込むのだろう。

 

主人公に自分を置き換えて疑似恋愛を楽しむのだろうか。

しかし少女漫画の主人公とは、軒並み純粋で鈍感で器量が良く知らず知らずのうちに人気ものの男の子と仲良くなれるスペックの持ち主だ。

自分と共通項が見当たらない。

見当たらないどころか、あの度の過ぎた天然ぶりには時折イラッとしてしまう。

 

それならば客観視していれば良いのだろうか。

そう思って2話目で実践してみたところ、結構ハマった。

2話は女の子が言われたいセリフやされたいイベントが多くでてきたこともあり、胸キュンのなんたるかを指南された気分だ。

 

ただ、この視点だと自分自身が作中の男の子達に惹かれることが全くない。若者の恋愛を冷やかす近所のおばちゃん状態だ。

これで良いのか。

 

1巻を読み終わった今、2巻目に入るかどうかは正直悩みどころだ。

面白いとは思う。ストーリーは王道で、セリフやエピソードは女の子の憧れが詰め込まれている。絵柄も可愛らしいし、模範的でクラシカルな少女漫画だ。

 

現実にはありえないご都合主義だとは思うが、それは少女漫画に限ったことではない。

むしろミステリの方がよっぽど奇跡に近いほどの好都合で物語が展開するし、戯曲の方がよっぽど有り得ない展開で恋に落ちる。

 

問題は私にあるのだろう。もう少女漫画に純粋にときめくことが出来るほど若くないのだ。

それでも面白いと思う折はあるのだから、10巻全て読めば魅力を理解できるかもしれない。

 

春休みの読書リストに組み込むことにしよう。

シンデレラドリンク

タピオカブームが凄まじい。

一過性の流行だろうと思っていたら、日毎に勢いを増していた。

街へ出かければ大抵見かけるし、どこも繁盛している。

 

繁盛どころか、台湾からやってきた貢茶という台湾ティー専門店は連日大行列だ。

3~4時間並ぶのは当たり前で、あまりにも混むため整理券が配布される。

 

整理券、アトラクションでもイベントでもなく飲み物に。並んでる間に喉が渇く。

 

とはいえもちろん飲んだ。

 

それほど混んでいない店舗でそれほど混んでいない時間帯に飲んだため、上記ような苦労はしていないが、それでもやはり多少は並んだ。

 

日本のミルクティーよりもお茶の風味が強く、タピオカも弾力があって美味しかった。

人気になるのも納得だ。

4時間並ぶのは驚きだが、並ぶ=人気がある、人気がある=美味しい、という方程式が成り立ってしまうのが人間の心理だ、仕方がない。

 

個人的な好みを言えば、貢茶よりもアイスモンスターのタピオカの方が好みだ。

アイスモンスターも台湾発祥だが、こちらはかき氷専門店だ。

この店も、日本上陸当初はニュースで取り上げられるほどの人気を博していた。

真夏の炎天下にかき氷を食べるため5時間待ちの行列ができていたのだ。当然熱中症続発だ。

涼むための甘味であるはずのかき氷を食べるために熱中症とは、本末転倒ここに極まれり。

 

とはいえもちろん食べた。

 

ブームがとっくに過ぎ去ってから食べたため、熱中症で倒れることはなかった。

ふわふわとした食感と濃厚なシロップが特徴で、従来のかき氷とは一線を画したスイーツだった。

だが、先程も述べた通り、私はこの店のタピオカが大好きだ。初めて飲んだ時あまりの美味しさに笑いが止まらなかった。

 

ミーハー精神も食欲も旺盛であるため、色々な店のタピオカを楽しんできたが、暫定1位はアイスモンスターだ。

 

今は味だけで勝負する時代ではない。

スタイリッシュなボトルに入れてみたり、ホイップクリームを乗せてみたり、カラフルに着色してみたりと、消費者の興味を引くアレンジが日々無数に考え出されている。

 

タピオカの方もまさか自分がここまで大ブームになり、ここまでバリエーションを増やされるとは思っていなかっただろう。

 

ブームになる前は「カエルの卵みたい」だの「デンプンでしょ?美味しくなさそう」だの言われていたのに、いつの間にかドリンクスイーツ界のトップスターだ。

 

いつか新たな大ヒットドリンクが現れるまで、タピオカの人気に貢献し続けたいと思う。

 

思い出画廊

Instagramが好きだ。

過去の記事でも幾度となくその名を挙げているためご存知の方も多いかと思うが、私は基本的に何をするにもInstagramを頼りにしている。

 

口コミサイトと違って審査がないため、お世辞抜きのリアルな意見を知ることが出来る。

企業より具体的に情報をまとめてくれている人達すらいる。

Googleマップと連動しているため、場所や行き方もすぐに調べられる。

LINEやTwitterといった他のSNSとも連動させられるため、情報の共有も簡単だ。

 

1つのアプリでここまで出来てしまうのだ。わざわざ専門のサイトを訪れるよりずっと効率が良い。

 

勿論、情報収集の目的以外でもInstagramは楽しい。

友人達の写真のみならず、可愛い女の子やかっこいい男の子、癒し系の動物や綺麗な景色など、魅力的な写真で溢れている。

 

プロのカメラマンや芸能人でなくともそういった写真を撮り、掲載することが出来るのがInstagramだ。

 

無論、私自身も度々Instagramに写真を投稿している。

いいねが付けば嬉しい、多ければ多いほど嬉しい。

 

より多くいいねをもらうには、少しでも見栄えの良い写真を載せたい。

そうした考えにより、投稿する写真には必ず加工を施している。

 

影が入り込まないように、色鮮やかに見えるように、輪郭がはっきりするように。

 

こうしたちょっとした修正は当然ながら、最近では天気を晴れにしたり、写りこんだ障害物を消したりといった事実の改変まで行っている。

創造神か。

 

自分としては、それで写真が美しく見えるなら大いに満足だった。

しかし、ある友人が「写真は真実を写す媒体だから、過剰に美しくする加工は好ましくない」という旨の発言をしていたのを聞き、写真というものの元来の姿を思い出した。

 

被写体がはっきり見えるように明るくするなどならまだしも、何かを消したり足したりしてしまえばそれはもう記録とは呼べないだろう。

正しい記録が残せなければ、思い出そのものも歪んでしまいかねない。

それを愉快に思わない人がいるのは当たり前だ。

 

ただ、その友人は「だから自分はしない」だけであり、「だからお前もするな」と言ってくるタイプではない。最高。

 

私としても、彼の意見が正しいことが理解している。しかし、だから自分も加工を止めようとは思わなかった。

 

思うに、Instagramに加工写真を投稿する人の多くは、それらの写真を単なる日々の記録だとは見なしていない。

それらはある種の芸術作品のようなものなのだろう。

 

自分が見たり聞いたり触れたり食べたりしたものを、今度は自分が美しく見せる。

その作業は楽しいし、上手くいけば感動する。加えて、他者から評価されれば満足感も得られる。

思い出を自分の中に閉じ込めておくだけでは手に入らない幸福感を味わうことができるのだ。

 

Instagramはアルバムと言うよりアトリエに近い。

 

思い出をありのまま大切にするのも一興、それを用いて新たな楽しみを見出すのもまた一興だ。

 

 

素手で熊狩り

私が初めて赤ネイルをした時の妹からの評価だ。

 

お洒落に関心はあるものの、手先が不器用な私にとってネイルは敷居が高い。

見事なまでにムラが出るし、えげつないくらいはみ出るし、乾かしてる間にどこかにぶつけて剥げるし、そもそもセンスがない。

独特の香りや所要時間に対する抵抗もあり、あまり挑戦することがなかった。

 

高校生までは校則違反であったためしていなくても気にならなかった。しかし大学生になると、周りに綺麗な爪をした友人が多いことに気がついた。

 

みんないつの間に練習してたんだろう。

もともと手先が器用なのかな。

 

しかも、ただ色を塗るだけではなく、キラキラした石が乗っていたり、バイカラーになっていたり、ラインやドットが入っていたりする。

 

手や指は視界に入る機会が多いため、そこが可愛らしいと非常に好印象だ。

 

周りに良い印象を与えるだけでなく、もちろん自分にとっても可愛い指先はモチベーションが上がる。

 

人に影響されやすい私は、大学に入ってから様々な色のマニキュアを集め、塗り方を調べ、毎週のように爪の色を変えるようになった。

 

やり始めれば楽しいもので、何色か塗り分けたり、簡単なラインを引いたりするようにもなった。

ネイルに合わせてコーディネートを決めたり、逆に新しい服に合わせてネイルを考えたりするのは服選びの時間短縮にもなる。

人に褒められると嬉しいし、写真を撮る時にも可愛い爪だと見栄えが良い。

 

ちなみに何度やってもはみ出さずに塗ることは不可能なので、はみ出すことは恐れず塗る。

熊狩り上等。

あとから綿棒と除光液で修正すれば良いんだよ。

 

そんなこんなですっかりネイルにハマっていたのだが、ある日除光液でマニキュアを落とした時愕然とした。

自爪がくすんだ紫色になっていた。

 

マニキュアの色が落ちていなかったのでは無い、爪が全力で体調不良を訴えていたのだ。

 

考えてみれば、染料によって皮膚呼吸が妨げられているのだから爪に悪いのは当たり前だ。

貧乏学生の私は安く買えるマニキュアばかり用いているため尚更だ。

 

怖くなったためしばらくマニキュアは控えた。

代わりネイルオイルやハンドクリームを塗り、過労死寸前の爪を労わった。ごめんね。

 

最近ではだいぶ爪の調子も回復してきたため、適度にネイルを楽しんでいる。

 

しかし、依然として下手だ。

 

友人達の爪の綺麗なことと言ったら!

ムラやオーバーがないのは勿論、デコレーションパーツはバランスよく飾られており、デザインもブレなく描かれている。

 

ネイルサロンでやってもらっている子もいる。プロの手にかかった爪は、指先に10個の宝石がついているかのようだ。

 

ズボラな私は、それらの宝石達をすぐ欠けさせたりどこかに落としたりしそうでサロンに行く勇気が出ない。

 

というか、セルフネイルの子もサロン通いの子も、頭洗う時とか怖くないのだろうか。

絶対パーツどっかいっちゃう。無くなってたらショック過ぎる。

 

いや、そういう一過性のものであるからこそ価値があるのかもしれない。

 

可愛いって奥が深い。

 

当面は自力で楽しむつもりだが、進歩が見られないのが悲しい。

お得意のInstagramで綺麗な塗り方や流行りのデザインを勉強してはいるのだが、まだまだだ。

 

マタギのため、アドバイス随時募集中です。

 

聖菓の日

バレンタイン。

海外から日本に持ち込まれたイベントの中で、クリスマスに負けず劣らず根強い人気を誇っている。

その形態はお菓子会社の策略により本来のものとは異なってしまっているが、大のチョコレート好きである私にとっては願ったり叶ったりだ。

 

2月に入るや否や、毎年の恒例行事としてデパートへ赴いた。

催事場の皮を被った戦場でチョコレートを吟味するのだ。

 

無論自分用だ。

 

近頃はSNSの普及により、所謂「インスタ映え」スイーツが大流行している。

 

動物や化粧品を象ったチョコレート。

惑星を模したチョコレート。

カラフルなコーティングやトッピングが施されたチョコレート。

 

持ち帰る贈答用のチョコレートのみならず、イートイン用のソフトクリームやワッフルなども豊富だ。

 

会場には軽快な音楽が流れており、惜しみない試食の並もおしよせてくる。

 

そこらのアミューズメントパークより遥かに楽しい空間で、至福のひとときを過ごした。

 

財布と体重をしっかりと反比例させながら。

 

 

無論自分でチョコレートを作るのも好きだ。

 

1月のうちからチョコレートのレシピを載せているサイトやアプリを見て回り、何を作ろうかと思案する。

買い物に行く度材料を買い揃え、調理器具や包装紙も用意する。

 

こういった準備段階すら楽しいのがお菓子作りの良いところだ。

今年は珍しく妹も興味を示したため、2度その楽しみを味わえた。

 

妹に作り方を教えながらお菓子作りをする私を見て、母が「湯煎する時、板チョコをお湯に入れようとしてた子がねえ。変わるものね。」と言っていた。

 

え、私そんな破天荒なことしてた?

 

今年作った生チョコタルトは、日頃恐ろしく(文字通り恐ろしく)寝起きの悪い妹が「美味しい!!」と叫んでくれたため、少なくともお湯で薄まってはいなかったと思う。

 

集中講義真っ只中であるため、大学で友達とチョコレート交換を楽しむことができた。

あげた時の笑顔や感謝の言葉は本当に嬉しいし、作った甲斐があると思える。

手の込んだクッキーや日頃買わないお菓子を貰えるのも、友達との仲が深まるきっかけになる。

 

ウァレンティヌスも、死後1500年以上も経った後、こんな形で名を残しているとは夢にも思わなかっただろう。

 

恋人たちのために殉教したと言われている彼は、恋人達に限らずたくさんの人々を笑顔にしてくれている。