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独りよがりで良いじゃない

賢愚善悪多分不可分

小説の実写化、特に映画において、作中人物のキャラクターが極端にデフォルメされることがよくある。

物語を2時間にまとめなければならないのだから当然のことだ。

しかし、デフォルメの仕方によっては作品の魅力を半減させてしまいかねない。

 

以前の記事でも書いたが、私は湊かなえさんが大好きだ。

彼女のデビュー作『告白』も映画化されている。

もちろん観に行ったが、実を言うと予告の時点で少し違和感があった。

 

この作品は最愛の娘を教え子に殺された女教師が犯人の教え子たちに復讐する話だ。

恐ろしいのはこの女教師の淡々とした話ぶりだ。彼女は激しい怒りを胸中に隠し、冷静沈着に彼らを追いつめる。

最後のセリフなど、文字だけで彼女の冷たい笑顔が目に浮かんでくるほどの迫力があった。

 

しかし映画の予告で、松たか子さん演じる女教師は「どっかーん!」と叫ぶ。

そんなおちゃめな。

無駄な大声や大仰な仕草はむしろ興醒めだと思ったが、やはり映像化する以上、それくらいのエンターテインメント性や盛り上がりは必要だろう。

 

それよりも私が納得出来なかったのは、映画における加害者少年の母親の描写だ。

 

原作でも映画でも、この母親は病的な親バカだ。

子供を愛しているという点では女教師と同じだが、女教師が賢者なら彼女は愚者として描かれていると言える。

しかしそれでも、彼女にも理性や知性はある。

愚者が時々見せるハッとするような穿った見方、賢者が時々見せるユーモアある人間臭さ、それらこそが湊さんの作品の面白さだ。

 

それにも関わらず、そうした描写は映画では容赦無く端折られる。

 

不登校になった加害者少年の家に、クラスメイトからの寄せ書きが届けられる場面がある。

 

原作では、母親は受け取ってすぐにその寄せ書きが、頭文字を取って読むと「ひとごろししね」になることに気が付き、呆れてあしらっている。

 

一方映画では、喜んで寄せ書きを受け取り、額縁に入れて部屋に飾る。後に追い詰められた場面になった時、頭文字の秘密に気が付き絶叫する。

典型的なヒステリック毒親だ。木村佳乃さんの狂った演技は見事だった。

 

しかし、愚者の中の賢は抹消されていた。

 

冒頭でも述べたとおり、仕方が無いのは分かっている。

限られた時間内で、物語を展開させ、なおかつ観客を飽きさせない演出をしなければならない。

人の本質だの心の機微だのにいちいち気を配ってはいられないだろう。

 

分かってはいるのだが、やはり味気なさを感じてしまう。あらすじだけ読んでいるような気分になる。

 

もちろん映画には映画の良さがある。

美しさ、迫力などは文で読んで頭で組み立てるよりもダイレクトに視界に飛び込んでくる方が気分が高揚する。

私の乏しい想像力では作者の意図した描写が上手く汲み取れなかったシーンが、映画内で鮮やかに描かれていると感動する。

 

しかしそれらは全て瞬間的なものであり、心に深く入り込んではこない。

デフォルメされたキャラクターはどこか作り物めいている。不合理なことをしないのだ。ありえない。

人間はみんな賢と愚、善と悪、相反する性質や感情を持ち合わせているものだ。

 

あくまで個人的な嗜好の問題だが、私はストーリーそのものと同じくらい、登場人物のキャラクターを重視している。

 

愚行こそ魅力、不合理こそ温かみ、矛盾こそ美しさだ。

 

長々と不満を連ねてしまったが、映画やドラマを観るのも好きだ。器量の良い俳優さんや最新の映像技術など観ていてワクワクしないはずがない。

 

小説と映画を同一線上で語っては行けない。

 

両者を区別しそれぞれの良いところに目を向ければ作品の鑑賞はもっと楽しいものとなるだろう。