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独りよがりで良いじゃない

模範感情

現代文によくある、「この時の主人公の心情を述べよ」や「この発言に込められた思いを次のうちから選べ」という問題が不気味だ。

人の気持ちはその人の持ち物だ。他人に100%理解できるはずがない。たしかに物語上の人物は作家の創造物で、現実の人間ほど複雑な心の機微は持ち合わせていない。しかしそれでも、そのキャラクターには作家の意識や思いが内在しているものだ。問題の作成者が作家とは別人である以上、それらを全て汲み取ることは不可能だ。自分がその物語を読んで感じとったことがその物語の全てだと思い込み、あまつさえ自分と同じ意見を他者にも強要するなど、驕り高ぶるのも程々にして欲しい。

そもそも、物語の作者は、全ての読者に同じ意見を持たせようとはしていないと思う。全ての読者から同じ感想しか出てこないような物語は面白みに欠けるているのではないか。読み手の年齢、性別、生活環境などによって価値観は様々だし、全ての人はそれぞれ異なる感覚質を持つ。それに同じ人物であっても、その日の気分や体調によって物の見方も変動するだろう。

私にとって『人間失格』などはまさにその確固たる例だ。小学生の頃、初めてそれを読んで抱いた感想は「自分には理解できない」だった。話の筋がではなく葉蔵という人間が理解できなかった。中学生になると、多感な年頃だったこともあり、概ね彼に共感しながら読んだ。共感のみならず、あの厭世的な態度に憧れ、影響を受けた。所謂厨二病というやつだ。高校生の時は、横並び平和主義の最中にいた。そのため世間の常識や良心、倫理観からあまりに逸脱した葉蔵にドン引きし、恐ろしさすら感じた。

このように、私の内的変化に伴って私にとっての『人間失格』も変化していく。その時私の思いに応じて私の中の葉蔵の思いも様々なのだ。どこぞの先生が独自の見解で作った正解なんかに、それら心の機微は当てはまりっこない。

現代文の授業で、生徒一人一人に感想を求めること自体は良いと思う。問題は、生徒全員に同じ感想を期待しているということだ。生徒の方もそれを感じ取っているから模範的な発言しかしない。そんな授業にはなんの意味も生産性もない。やるなら全員の意見を全員の個性として受け止め、それらの意見を大切に話し合うべきだ。

他者の考えを尊重することは、自分にとっても利益となる。視野が広がり、新たな角度から物事を見ることができるようになる。読書の楽しさも一層深まるものだ。

小中高と『人間失格』を読み、そのたびに異なる印象を抱いてきた。大学生の私はあの名作をどう読むのだろう。模範感情に当てはまるような大人になってしまっていては、過去の自分達に顔向けできない。